フー子のブログ

不安症、心配性なわたしが変われた方法

生い立ち③

登校しぶり(不登校まではいかない)がしばらく続き、わたしもわたしのまわりもみんな疲弊していました。


そんなん当たり前

わたし『なんで行きたくないのに連れて行くの?』(=誰も味方になってくれない)

の無限ループ、今日はなんて言ったら納得してもらえるかな、なんてことも幼いながらに考えていたこともありました。


1番味方でいてほしい親が怒ったり泣いていることが(そうさせてしまっていることが)1番辛かった。


そんなわたしを初めて受け入れようとしてくれたのが

当時の保健室の先生でした。

『教室がいやなら保健室で勉強する?』

そう言ってわたしを受け入れて見守ってくれました。

教室はしんどかったけど、保健室なら今のわたしはクリアできそう!





それからしばらくの間、保健室登校が続きます。

生い立ち②

そんな泣き虫なまま小学校へ。


1年生の頃はうまく適応していた様で

自分でもあまり記憶にありません(笑)


今でも忘れられない2年生、

クラスは変わらず

担任の先生が変わり

しばらく経ったある日、

突然学校に行きたくなくなりました。

当時の自分にも分からない兆候があっのかもしれないけれど

そんなうまく説明できる年齢でもないし、気づくことさえ難しい。


その年で自分にできる、自分の気持ちを精一杯言葉で伝えました。



『お腹が痛いから学校行きたくない』

はじめは親も先生も

『そうか』と受け入れてくれていた気がします。

でもずっと続くとそうもいきませんでした。


今から20年以上前、

今ほど

〜不登校、登校しぶり、過剰適応〜

なんてワードが飛び交うことなく、



『学校は行って当たり前』でした。





だから親も先生も泣き叫ぶわたしの腕を引っ張りながら、引きずられながら教室に入る日が続きました。



生い立ち①

わたしは田舎のごく普通の家庭に生まれました。

父は小売業、母は専業主婦(当時)、兄弟は弟が1人います。


物心ついたときには

わたしは母と離れるのが怖くて


幼稚園バスに乗る際はギャン泣き(笑)

母と引きちぎられるように離され、

バスに乗っていました。


当時 幼いながらわたしは

『なんで幼稚園て行かなあかんのやろ』と泣きながら思っていた記憶があります。


今思えばこれが

〜母子分離不安〜

そしてそれからの私の性格の原点だったのかなあと思っています。